アルフレド・ホアキン・フィオリート (Alfredo Joaquin Fiorito)

1953年4月20日、アルゼンチンのロサリオで生まれる。
地元のロック・バンドのプロモーター、「La Capital」新聞社の映画・音楽評論家等の仕事を経て、1970年代半ばにクラブ・シーン勃興前のイビサ島に上陸。

当初はキャンドルや洋服などを制作して生計を立てていたが、1982年にイビサ・タウンのカフェ「ビー・バップ(Be-Bop)」でDJを始め、その後ほどなくして「アムネシア(amnesia)」のレジデントDJとなる。

従来からイビサは、ヒッピーやセレブリティ、その他諸々のアウトサイダー達が集い、欧米におけるカウンター・カルチャーの秘境として、60年代から独自のコスモポリタンな文化的土壌を形成していたのだが、1987年の8月のある日、現在も伝説として語り継がれている、ヨーロッパのクラブ・カルチャーの歴史にとって最も重要な夜が訪れる。

数名のイギリス人の若者達がヴァカンスでイビサ島を訪れ、「amnesia」でアルフレドのプレイを体験したのだ。

その若者達とは、当時まだ無名だったポール・オークンフォールド(Paul Oakenfold)、ダニー・ランプリング(Danny Rampling)、ニッキー・ホロウェイ(Nicky Holloway)、トレヴァー・ファング(Trevor Fung)、ジョニー・ウォーカー(Johnny Walker)である。

この頃のU.K.のクラブ・シーンは細分化が進み、膠着状態に陥っていたのだが、ロック、ソウル、レゲエからアシッド・ハウスや映画音楽まで、一つの文脈でプレイする、アルフレドのオープン・マインドなプレイ・スタイル(その後、イギリスのメディアによって“バレアリック”と呼ばれる)は、彼らにとてつもなく大きな衝撃を与えた。

すぐさま彼らはイビサで体験したバレアリック・スタイルをU.K.に持ち帰り、ポール・オークンフォールドは「スペクトラム(Spectrum)」、ダニー・ランプリングは「シューム(Shoom)」、ニッキー・ホロウェイは「トリップ(Trip)」と、それぞれ新しいパーティーをスタートさせた。

これらの新しいパーティーと新しいスタイルは、瞬く間にU.K.中を席捲した。

例えば、今や伝説となった「シューム」には、当初50人の客しか集まらなかったが、
数ヶ月後には毎週末クラブに入りきらない2000人ものクラウドが道端に溢れ出すという、とんでもないビッグ・ムーヴメントに成長する。

この様な状態は1987年から1989年までの間、ずっと続いた。
この3年間は、いわゆる”セカンド・サマー・オヴ・ラヴ”と呼ばれる時期と完全に一致する。

つまり、”セカンド・サマー・オヴ・ラヴ”、”レイヴ/ウェアハウス・カルチャー”、”マンチェスター・ブーム”、
ひいては昨今の”ディスコ・ダブ”まで、イビサに端を発する一連の現象の引き金を引いた張本人が、アルフレドなのである。

もし、アルフレドとイギリスから来た5人の若者達との出会いが無ければ、現在のヨーロッパのクラブ・シーンは全く違う物になっていたであろう。

彼らは皆、今では国際的に有名なスーパー・スター・DJやプロモーターとなっている。

また、この時期、アルフレドは、ポール・オークンフォルドらに招かれてU.K.でプレイしたり、積極的に海外をツアーする機会を多く持ち、イビサのバレアリック・カルチャーの普及に努めた。

日本へも1990年代初頭から幾度かツアーを行っており、最近では2008年、2009年と続けて日本へ招聘されている。

アルフレドは「アムネシア」で1989年まで計7年間のレジデントを務めた後、「パチャ(PACHA)」に移り、更に革新的なスタイルを切り開き、レジデントとして3年間を過ごす。

「パチャ」でのレジデントの後には、シンガポール随一のビッグ・クラブ「ズーク(Zouk)」でオープニングから3か月間プレイした。

そして、1996年から2004年までは、世界最大のクラブ「プリヴィレッジ(privilege)」のレジデントとして活躍した。
プリヴィレッジでは、イビサの代名詞とも言える、月曜日のパーティー「マニュミッション(MANUMISSION)」のためにプレイし、アフター・アワーズとして火曜日の朝の「スペース(space)」でも続けてプレイした。

マニュミッションでのレジデントを終えた後は、現在イビサで最も有名なパーティーの一つ、「WE LOVE...@space 」のレジデントとして確固たるポジションを固めている。
幸運にも彼は「スペース」で毎年のオープニングおよびクロージング・パーティーでプレイする、数少ないDJの内の一人である。

彼は、これまで30年近くに及ぶキャリアの中で、リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、マイアミ、ヨーロッパ全域の大都市から、オーストラリア、イスラエル、タイ、シンガポール、中国、日本、そしてもちろんイビサに存在するほとんど全てのクラブやバーでもプレイしたと言っても過言ではない。

そのキャリアの中で、1988年には“DJ MAGAZINE”誌において“DJ of the decade”賞を受賞し、カンヌで行われる世界最大の国際音楽産業見本市“MIDEM”においては、DJとして初の受賞という栄誉を果たしている。また、2005年には“Ibiza DJ Awards”にて、功労賞を受賞した。

更に、近年では、BBCのイビサに関するドキュメンタリー・ラジオ番組、“Barefoot in the head”に大きくフィーチャーされたり、新聞(U.K.のガーディアン紙など) 、雑誌・書籍(“Last night a DJ saved my life”など)、ウェブ・サイト、映画を始め数多くのメディアで取り合げられる機会が増えている。

彼は正に、バレアリック・カルチャーの伝説の生き証人であり、イビサの代名詞的存在でありながら、今なお現役の最先端で活躍する稀有な存在である。